喩え話が苦手

喩え話が苦手だ。何かを説明する時に、まずストレートな説明をして、その後喩えで話し直してくれることがある。最初の説明を聞いている時には理解できたのに、喩え話を聞くとかえって分からなくなるということがよくある。どうして喩え話をしたんだろう?(最初の説明の時に理解できたように見えない僕の振る舞いにも、問題があるんだろうけど。)

小説をよく読めるね、と言われる。そりゃ、あなたが、全人類が、よく書かれた小説ほどの喩え話してくれるのであれば大丈夫ですが、とはその場では思ったりしないし、今ここで書いているのも売り言葉に買い言葉的な物で、別に本心ではない。それに、実際にあなたが小説ほどよくできた喩え話をしてくれたとしても、僕は苦手だ。この話はまたあとで。

例えば……とここで使う「たとえ」は喩え話のたとえではないのだけど、例えば、「コミュニケーションの貯金」という言葉を最近聞いた。新型コロナウィルス感染症によるパンデミックを受けて原則リモート勤務にしたという文脈での言葉だ。曰く、今はこれまでのコミュニケーションの貯金を使って仕事をしている、この貯金は今後も貯めていくようにしよう。なるほど。貯金、金利が幾らか分からないけど、じわじわ減らしながら仕事をするより、何なら借金もして、一気に投資をして、おっきく回収する方がいいのではないか? コミュニケーションの借金とは? 回収を見越して投資してくれる企業はある?

恣意的な解釈だろうか。いい例を思い出せなくて、今回は半分はそうだ。でも一般に、喩え話には適用限界があって、多くの場合、人はそれを踏み越える。

僕は趣味でプログラムを書くのだけど、実は、プログラミングの世界ではたくさんの喩え話が出て来る。例えばウェブという物がある。これは蜘蛛の巣の喩えだ。ページが相互に、階層型でなく繋がっている様子を言っているんだろう。今出てきたページというのも喩えかな。トラフィック、という言葉もある。ウェブページへのアクセスが集中したり、マンション中の人が同時にビデオチャットをしたりしてネットワークが混み合った状態のことを、高トラフィックと言ったりする。交通量から取った言葉だと思うけど、交通の前にも由来があったかは知らない。

昔、こんなプログラムを書いたことがある。

かざしている手の下にある小さい箱がLeap Motion Controller、手の位置や形を検出するセンサー。灯りはPhillips Hueで、プログラム(とかスマホアプリ)から明るさや色を弄れる。これはLeap -> パソコン -> Hueと接続されていてこの通りにデータが「流れる」。パソコンは、LeapのデータをHueの明るさや色の命令に翻訳してから流す。これを、水流の喩えを使って説明することがある。(実際プログラミングにストリーム(小川)という概念があってよく使われる。)

Leapから、秒間60回ぐらい、「今現在はこんな位置でこんな手の形だ」というデータがパソコンに流れてくる。パソコンが何もしなければそれがそのままHueに(データをHueが理解可能な物に翻訳した上で)流れる。しかし、これだと、Leapから流れてくるデータが速過ぎてHueの受け口が溢れてしまった。そこでパソコンには、データの翻訳の他に流量調整の役割も与えて、Hueから溢れそうなデータを別の小川に捨てることでHueを守るようにした—とこういう喩え話は実際によくする。

プログラミングを持ち出さなくても僕は喩え話からは逃れられない。金額の上下もそうだろう。上とか下とかは、空間での概念だ。重力方向が下で、その反対が上。建物の上の階、下の階がそうだ。それを抽象的な価格や、地位などにも援用している。日本語の葉や芽は人間の歯や目に由来するのだと聞いたこともある。そもそも現代の人間は喩えからは逃れられないのだろう(未来は知らん)。

小説の話に戻ろう。上田岳弘の『ニムロッド』という小説がある。ビットコインと小説を結び付けて描いていて、ビットコインの説明が正確な上に僕では思い至らなかった問題も指摘されていてまずそこに舌を巻いた。それと、小説を書くという行為を繋げて考えていて、そこをここでは喩え話としよう1。小説作品、読み終わりがあって読み始まりがある物の中では喩え話は大丈夫だ。その効力は作品世界に閉じている。だから

お金に関する話と言えば、最近ミヒャエル エンデの『モモ』を読み始めて、べらぼうに面白い。まだ、ようやく時間貯蓄銀行が出て来たぐらいなので、経済についての部分は殆ど考えることがないのだけど、例えばこんな比喩が好きだ。

かれらほど一時間のねうち、一分のねうち、いやたった一秒のねうちさえ、よく知っているものはいませんでした。ただ彼らは、ちょうど吸血鬼きゅうけつきが血の価値かちを知っているのとおなじに、かれらなりに時間のだいじさを理解りかいし、

僕にも受け入れられる……と言うか受け入れてしまっている喩え話とそうではない喩え話、うまく使えている喩え話とそうではない喩え話があるようだ。オーケイ、喩え話を分類すればいいんだろう、例の、四象限などを使ったりして。だけどそれは、自分のためにならないのでしない。必要な人もいるかもだけど、自分のために、ごめん。

『ニムロッド』の価値の解釈とニムロッドその人をたまに思い出して、そして最近のNAVERまとめ終了のニュースを聞いてやるせない気持ちになったりする。小説なら大丈夫、適用限界を誤ることはない……ということが多いけど、いい小説ではそうじゃないのはご存じの通り、現実と切り離せなくなってしまう。MMTが一瞬バズって(そもそもバズというのは一瞬の物だけど)、あれ、『ニムロッド』の喩えはあれでいいのか? なんて思ったりする。世界や読者側の変化でやっぱり喩え話が脅かされてしまうのだ。小説でさえそうなので、「閉じている」という感覚のない、口頭の会話での喩え話なんて、むり、むり。

プログラミングの喩え話も苦手と言うか、不安がある。先のプログラムを水流の喩えで理解して、それをコードに落とし込む、それがプログラミングという営為だ。それはプログラミングの、コンピューターのポテンシャルを制限してしまってはいないだろうか? 僕自身の発想が喩え話に制限されることで、自由な発想でコンピューターへの命令を書けていないのかも知れない。

こうして喩え話を遠ざけているとそのうち喩え話が下手になってくる、するのは勿論、受けるのも。本当に、全く、喩え話の意味が分からないということが最近は増えた。

誰でも考えたようなことを長々と、それも取り留めなく書いてきてしまった。いい喩え話という物が存在するのは認めるけども、それどころか喩え話なしでは生きていけないとさえ思うけども、でも喩え話無しだっていいんじゃない? 喩え話に頼らずに生きることを試みることだって姿勢の一つだろう、と思っている(大袈裟)。

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実際には、本質的に同じだという話をしている、と僕は解釈している。だから喩え話には当たらないかも知れない。でもそこへ踏み込むほど、厳密な喩え話の定義など僕は考えない。